今年は三越劇場・誕生90周年ということで、本館1階中央ホールでは4月26日~5月2日の間、資料展示やトークショーなどが開催されています。そのイベントの一つ、劇場見学ツアーに参加してきました。

三越劇場 全体初代の緞帳のデザインは杉浦非水が手掛けた。年間何千回も上げ下げをする緞帳は消耗激しく、現在のものは十数年前にとりつけられた「麗」という題のもの。

三越劇場

三越劇場 舞台から

大正3年に建てられた日本橋三越本店は、当時最新設備のエスカレーター(日本初)やエレベーター、スプリンクラーを備えた東洋一の百貨店と称されました。それが10年もたたないうちに関東大震災で燃えてしまいますが、躯体は残り、耐震補強され甦ったのが昭和2年。
延べ20万人余りを費やす大工事の末、今度は日本初の自動扉エレベーターなども備えた三越ですが、その際に当時の経営者の「建築だけでなく、文化的な復興も必要」との想いからつくられたのが、世界初、百貨店の中にある劇場・三越ホール(現在の三越劇場)でした。

上記だけでもいろいろと「初」の多い三越ですが、ファッションショーを日本で初めてしたのが、ここ三越ホールでした。とは言っても現在のようなウォーキングをする洋風のショーではなく、初回(昭和2年9月)は女優の初代・水谷八重子などが日本舞踊を舞うものだったそうです。

三越劇場 謎の顔
プロセニアムアーチ(額縁)の舞台・上中央には三越のロゴの両脇に口を開ける謎の顔が!!

三越劇場 獅子
麒麟に間違えられることもある獅子が舞台両脇に鎮座。

三越劇場 二階
当日は撮影可。奥に見える劇場扉には覗き窓がある。
日本橋三越は初代の帝劇や現存する日本工業倶楽部などを手掛けた横河工務所(現、横河建築設計事務所)が担当。劇場の設計資料がほとんど残っておらず、様式は不明ですが、百貨店の中にあるホールとして印象的なものとするため、ロココ調の雰囲気であるとのこと。
具体的な記録は残っていないものの、携わった子孫が遺した記録によると、あんまり派手でも下品になってしまうので、基調色をグレーとしたそう。大理石も灰色です。

三越劇場 舞台柱三越劇場 イルカ
三越劇場 顔
周壁には石膏彫刻。柔らかい素材で欠けやすいため、注意深く見るとちょこちょこ欠けた部分もみうけられる。
出所不明のモチーフが多いものの、震災で燃えたせいかイルカや貝など水を連想させるものも。

戦時中、三越店内の大方は統制機関に貸し出され、三越ホールは映画配給会社の試写室となりましたが、東京大空襲を免れたのは幸いでした。終戦翌年の昭和21年に「三越劇場」に改名し、早々に再出発を果たします。歌舞伎座も明治座も消失してしまった戦後において、再び「文化的な復興」を担う存在として、劇場を失った歌舞伎界のため、30本もの歌舞伎公演を上演しました。今でも続く「三越歌舞伎」です。

三越劇場 照明
電球の交換は大変だそうです。照明器具が見た目よりずっと重たく、交換は2~3名がかりだそう。

三越劇場 エアコン三越劇場 吸気口
開場当時から、画像左、上部の丸と半円の装飾口から冷暖房で空気を送り、画像右の床にある通気口から吸気。昔は下駄や雪駄でホコリが舞い上がっていた模様。両方とも今も現役。 

三越劇場 ステンドグラス
少し前まで一度壊れてしまえば修復不可能と言われていたけれど、可能、らしい。
天井のステンドグラスは今は防災上の関係でアクリル板を張ってあります。三越劇場のロゴはこのステンドグラス。2階客席からがよく見ることができ、その凹凸が感じられます。
作ったのは、別府七郎。ドイツで技術を学び日本初のステンドグラス工房を開いた宇野澤辰雄の最初の弟子で他に江の島・岩本楼ローマ風呂、川越・旧山崎家別邸、靖国神社・遊就館など手掛けました。
こちらの電球の交換もすごく大変で、交換する空間が狭くほふく前進でやっと通れるくらい。しかも一方通行なので、すぐ隣の電球も換えられないんだとか。

三越劇場 ステント1三越劇場 ステント2
天井の模様は78種類の色調を組み合わせたステンシルで、2階客席へ行くとステンドグラス同様、間近に見ることができます。音響をよくするため、薄い合板だそう。
近くで見ると・・・図柄がはみ出ているとかでもないのにどこか精巧さがない、奇妙な印象を受けました。
それで改めてステンシルについて調べたところ、ブリタニカ国際大百科事典によると、「型染のこと。型紙の模様を切抜いた部分に染料や絵具を摺り込む染色や版画の技法。きわめて初歩的な技法であるが,デザイン,版画およびフランスなどの美術印刷ではいまでも一部でこの方法が用いられている」とのこと。なるほど。それで何となくありもしないズレを感じたのかも。

三越劇場 スプリンクラー1三越劇場 スプリンクラー3三越劇場 スプリンクラー2
よく見ると、いろんな形のスプリンクラー
冒頭で大正3年当時最新設備のスプリンクラーと記述しましたが、実際は外国仕様のせいか、うまく機能せず、途中で破裂してしまったそうです。このため、復興の際はきちんと機能するよう徹底的に調べてから設置したそう。今でもちゃんと作動するそうですが、実際作動してしまったら、文化財としての価値は損なわれてしまうので、とにかくそのような事態にならないよう細心の注意を払っているそうです。

それで思い出したのが、八幡製鉄所のお話。増田彰久さんの『西洋館を楽しむ』という本の中で、八幡製鉄所はドイツ人が本国と同じスペックで作ったものの、まともな鉄が作れず大変だったという話が載っていました。日本の石炭はドイツのものより質が悪いし火力も弱かったせいのようですが、原因を突き止めるのに2年もかかり、それ以後、単に外国のものを単に輸入するだけではダメだと痛感し調査と研究を怠らなかったそうです。

三越劇場 躯体
皇室の方が来られると、ロイヤルシートがないので、2階最前列の12番前後にご案内するそう。そして実際、ここが一番見やすいです。
ステージ奥には普段白い布で覆われている躯体が見えます。一時期、柱を切る話が出たものの、下まで繋がっているため、ここを切ってしまうと建物全体に影響が及ぶということで見送られました。

 (参考文献)
 東京遺産な建物たち 
 月刊日本橋2017年3月号

 (今日のおまけ)
 本館1階中央ホールで展示中の「三越劇場のあゆ
 み~90年そして未来へ~」によると、北村薫『街
 の灯』に三越劇場が登場しているそうです。
 昭和初期を舞台にしたミステリー。北村薫という
 と、円紫さんシリーズが面白かったので、こちら
 も機会を見つけて読みたいと思います。
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旅館の広々とした玄関。
三養荘 フロント 三養荘はもともとは三菱財閥の第三代総帥だった
 岩崎久彌が昭和4年に建てた別邸でした。
 当時64歳の久彌は既に社長を退き(大正5年)、
 小岩井農場の運営に注力していたそうです。
 戦後の財産税のあおりでしょうが、昭和21年に堤
 康次郎に所有が移ります(それでプリンスホテル
 系な訳ですね)。

 それを三養荘として営業開始したのは昭和22年の
 こと。伊豆長岡温泉の中でも屈指の旅館で、天皇
 皇后両陛下・皇太子などが度々ご宿泊されまし
 た。「銀の匙」で有名な中勘助も宿泊記録があ
 るようです。
 現在、玄関口となっている方は隣にあった白石旅
 館を買い取って建てた新館部分です。
 ということで旅館2つ分(4万2000坪)という広
 大な敷地。これだけ広ければ上に建てる必要もな
いようで、建物はほとんど平屋です(そのため、食事や浴場への移動に歩くこと歩くこと…)。

三養荘 全体図
中央グレーの道路より上半分が旧岩崎別邸、下半分が旧白石館。

三養荘 浮舟 外1 三養荘 浮舟 外2
泊まったのは村野藤吾が建てた新館の「浮舟」という部屋でした。
旅館の配置図をみると、南に位置する新館は2部屋が続きになっているものが多く、施錠された戸でつながっているようでした。なので、その気になれば行き来できるのでしょうが、「浮舟」だけでも本間のほか、次の間、化粧間があり実感としては家族4人で泊まっても広すぎるくらい。

三養荘 浮舟 本間
トンネルのような形の床の間は主に茶室に用いられる形式のひとつで洞床(ほらどこ)の一種・龕破床(がんわりどこ)というものだそう。

三養荘 浮舟 次の間 三養荘 浮舟 廊下

三養荘 浮舟 内風呂 今回、三越の平日限定宿泊クーポンというのを
 使ったので、部屋はお任せで通常料金もよく分
 からなかったのですが、じゃらんで検索してみる
 と化粧間もあって内湯もついているプランは平
 日でも28,000円くらいだったので、やっぱり
 三越クーポン(21,600円)使ったのはお得だっ
 たのかも(食事のコースランクも不明なので断
 言はできませんが・・・)。
 三越クーポンは定期的に三越で販売されていて、
 フツーの一般客でも買えます!
 ただ特定日だけの販売なので、友の会などに入っ
 ていないと予め販売日を知るのは難しいかも。

 一応、一続きの建物に客室がつながっている訳で
 すが、実際は「離れ」の感覚に近く、庭に出ても
 他の客に見られることもなく、内風呂もガラス面
 でも見られる心配もなし。

三養荘 本館広間
夕食は本館広間もくせいへ。こちらは戦後建てられたものですが、それでも物凄い太い柱。

料理はオーソドックスな盛り付け・品でしたが、どれも美味しゅうございました。その中で目も気も引いたのは赤梅甘露煮。大振りで人形町・凡味の太郎梅を思い出します。
それから、これぞ伊豆、というのが締めのご飯のときに出てくる山葵。これをご飯にのせてちょっと醤油をたらして食べます。

三養荘 夕食1三養荘 夕食2三養荘 夕食3
写真のほか、煮物、小鍋、水菓子がつく。

大広間へ行くときに必ず通るのが、今はバーとして使われている、「狩野川」。こちらは関東大震災後の復興を指揮したことでも知られる後藤新平の田舎家を移築(昭和25年)したものです。家屋の一部を移築したようで、独立はしておらず、広間の隣にピタッとくっつき建物のひと部屋となっています。

三養荘 バー1

三養荘 バー2
バーと言っても開店休業っぽい感じ。すぐ近くの古奈別荘の洋館もこんな感じで喫茶営業の気配がありませんでしたっけ。。。

三養荘 バー3

三養荘 バー4 三養荘 バー5
遠目には「ん?トイレのマーク??」に見えたのはダンスをしている男女。まさか田舎家時代にそんなものを取り付けたとも思えないので、バーになってからのものかと。

三養荘 全景
宿泊客には翌朝9時から本館庭園のガイドがあるということで、参加してきました。
小さい子には(大人も?)頼めば鯉にやるエサも頂けます(^0^)

庭園入ってすぐにある石の塔は経歴が不明。従業員に伝わる話では韓国のものということだったけれども、古い書物に唐時代の中国のものと載っていたものの、写真がないのでそれもはっきりしないのだとか。
三養荘 石塔

三養荘 老松

三養荘 老松 三養荘 老松 鞍馬石
本館「老松」はもともとは応接間兼客間として使われていました。縁側の沓脱石は京都の鞍馬石で、現在ですと、石だけで一千万円下らないのだとか。かなり深く掘って埋めてあるそうで、見えないのに大きな石を使うところがさすが大金持ちって感じ・・・

何故これだけ大きな石を土台にしているかというと、客間ということで、庭に出る時に下駄を12足くらい置けるようにわざわざ大きな石を置いたとのことでした。と言っても、居間の沓脱石もすごくおっきかったですが・・・。まあ、岩崎家は大きな石が好きな人々ですしね。

鞍馬石について:名の通り京都府鞍馬山系で産出され、鉄分が多い為、表面が赤茶色・錆色
 になっています。
 今はほとんどとれなく、丹波や甲州の鞍馬石に対し本鞍馬石と呼ばれることも。
 特に大形の沓脱石は産出量が非常に少なく、ステータスシンボルといえます。

三養荘 松風
岩崎家別邸の時代には、居間として使用されていた「松風」。画像右の建物は小督(こごう)。
庭園の中央に位置し、山に対しても池に対しても真正面。
主の久彌の部屋であったこちらの床の間からの眺めが一番ということですね。
昔は東屋が山の方にあって、そこから自分の部屋を眺めていたそう。

三養荘 松風から見る庭
「松風」から見おろす庭。植治こと七代目小川治兵衛により作庭され、庭木・石の配置など京風です。ちなみに、岩崎家と植治の繋がりとしては、久彌のいとこである第四代総帥・岩崎小彌太邸の跡地(現在:国際文化会館)に庭が残っているそうです。

今、久彌の時代の建物で残っているのは4棟ほどで、画像左に見える離れは後年の建物。2000坪もの庭を潰して新たに客室を作ったため、今の庭は3000坪ほど。久彌が眺めたであろう庭とはかなり違っているのでしょうが、それでも今なお宏壮な景色です。

 (参考文献)  匠たちの名建築 稲葉なおと著

(今日のおまけ)
沼津御用邸 正門沼津御用邸 ビリヤード場沼津御用邸 洋館写真1沼津御用邸 洋館写真2
帰りに近くにある沼津御用邸記念公園を見学しました。残念ながら終戦間近の空襲により洋館などは燃えてしまい、今は和館の西付属邸が残るのみ。一部、増築された御玉突所(ビリヤード室)や正門が西洋風です。
なお、写真の洋館は御用邸としては最初で最後のものでした。片山東熊が設計したものだそうで焼失しまって本当に残念です。

正門について(看板の説明文引用) 
この正門は明治時代、大正天皇の皇太子時代に御用勤務の医師を務めたエルヴィン・ベルツ博士の縁により、ドイツのゾーリンゲンで特別に造らせた鋳鉄製の門で、長い歳月を経て、当時の姿を今日に伝えています。
●楽善会訓盲院の跡地 築地4-5-2
市場橋公園内にはジョサイア・コンドルが設計した訓盲院の記念碑があります。

訓盲院の跡地
東京盲唖学校発祥の地 日本点字制定の地
1979(明治12)年 ジョサイア・コンドル設計により完成      
1880(明治13)年 楽善会訓盲院として開校          
1887(明治20)年 官立に移管 東京盲唖学校と改称    
1890(明治23)年 日本点字制定                
2010(平成22)年 11月1日建之

コンドルがお雇い外国人として来日したのが明治10年。訓盲院の完成は明治12年。
工部大学校の南門・門衛室を別として、これが家屋としては日本で初めて建てたもののようです。
なお、築地明石町・現在の聖路加国際病院の敷地には、コンドル設計した立教女学院と内部装飾を手がけたトリニティ教会(立教女学院隣接)もありました(関東大震災により崩壊)。

●築地本願寺  築地3-15-1
築地本願寺
端の塔は仏舎利をイメージしたストゥーパ

ちょうど先月、BS日テレの「ぶらぶら美術・博物館」で案内していました。その時のお話によると・・・
西本願寺というと京都にあるけれども、約400年前に江戸に別院を日本橋横山町に立てたそうです。それが明暦の大火で焼けてしまいました。その後、幕府から与えられた土地はなんと海の上→埋め立てて本堂を再建(築地の土地名の由来は土を築いたから)。
そして関東大震災でまた消失してしまい、再度建てたのが今の築地本願寺。
古代インド様式にした理由→「西洋の真似だけではだめだ! アジアの建物を作らなくては!!」
お寺の建築で鉄筋コンクリートが使われた草分け。

設計したのは伊東忠太。中国→ヨーロッパへとシルクロードを建築学研究していた伊東忠太と大谷探検隊を率いた西本願寺第22代宗主大谷光瑞の出会いが築地本願寺を設計するきっかけとなりました。
アジャンター石窟寺院をモチーフにしたと言われています。

築地本願寺 カルラ前 築地本願寺 カルラ後
迦楼羅(カルラ)インドの仏法を守る聖獣。狛犬はこれがもとになっているようです。

築地本願寺 拝殿ステンドグラス
向拝(ごはい。本殿や拝殿に向かうエントランスのようなもの)入口のステンドグラス

築地本願寺 拝殿 床
向拝 左の階段

築地本願寺 鳥築地本願寺 牛
築地本願寺 猿築地本願寺 馬
築地本願寺 獅子築地本願寺 象
向拝の両脇の階段には、鳥、牛、猿、獅子、馬、象がいます。
That's 忠太ワールドとでもいいましょうか。
なお、鳥は鳩とか孔雀とか鳳凰とかいろいろ言われていています。一応、本堂でもらったプリントには孔雀とありました(でも、一般庶民には太った鶏に見えます)。そういえば、牛も猿も馬もそれが何牛なのかとかあまり気にしませんが、鳥は気になります。。。

これらの動物は三畜評樹という仏教説話に基づいていると言われて、鳥、猿、象のうちで鳥が一番小さい、弱いものだけれども、一番高いところから物事を見る。物事を見極めるには全体を見渡すことが大事ということを表しているとのことです。三畜と言いつつほかの動物もいろいろいるのは何故なのかはよく分かりません。

築地本願寺 大本堂
大本堂の4本の柱にはそれぞれ中国の四聖獣「青龍」「玄武」「白虎」「朱雀」もおります。

築地本願寺 象二頭 築地本願寺 グロテスク
このほかにも動物がいて、大本堂入って右にその場所を記した大きな地図とプリントが用意されているのでこれを頼りに探してみるとよいかもしれません。
1階奥には象二頭、同じく1階正面右側の階段にはグロテスクと呼ばれる獅子(?)の口から手すりが出ています。同じデザインが一橋大学にもあるそうです。
ブログを作っていて気が付きましたが、中庭の2階には鳳凰もいるようです。見逃した・・・
あと本堂内壁の木目調の塗装も・・・
築地本願寺 夜
 (建築データ)
 竣工 :1934年(昭和9年)
 所在地:東京都中央区築地3-15-1
 設計 :伊東忠太
 施工 :松井組 
 構造 :鉄筋コンクリート造 
 備考 :平成26年 重要文化財

(参考文献) 


(今日のおまけ)
大谷光瑞と言えば!!自分の中では断然『帝都物語』の中に出てくる大谷光瑞ですわ。と言いつつよく覚えてなくて、男色趣味のある怪僧・・・みたいな印象だけ残ってしまいました。すみません、宗主。


(関連記事)
●甦った西本願寺「伝道院」と伊東忠太展
●龍谷ミュージアム 特別展「二楽荘と大谷探検隊」
●築地 近代建築巡り その1(築地場外の看板建築)
夏ごろ、築地市場が移転する前に見学しておこうかな、と計画を立てていたのですが、そうこうしているうちにまさかの移転延期。それでも、土曜の築地場外は人混みで大変でした。

場外を歩いていると魅力的な食べ物が沢山あってそちらに目を奪われてしまいますが、実は看板建築の密集地でもあります。

●虎杖マーケット 築地4-13-17 秋山ビル(鉄筋コンクリート)
築地 秋山ビル その1
数年前に虎杖のことを初めて知ったときは、「えっ。これでいたどりって読むのかー」とビックリした記憶がありますが、久しぶりに築地場外に来てみたら、虎杖の店舗が至る所にあってまたびっくり。
今は白く塗られていますが、元はスクラッチタイルだったようです。
築地 秋山ビル その2 築地 秋山ビル その3
築地 秋山ビル その4 築地 秋山ビル その5
中はすっかり改装されていますが、持ち送りや階段などいい味だしています。

●つきじ酒井商店 築地4-10-3
つきじ酒井商店
地味ながらも横から見るとマンサード屋根であることが分かります。当時、3階建てが禁止されていたので、これは3階じゃないんですー、屋根なんです~、と言い訳のためにマンサード屋根にしたそう。
下↓に出てくる、「やま藤」先の看板建築なんかもそれっぽいです。

●圓正寺 築地4-12-9
圓正寺
明暦の大火により江戸御坊(築地本願寺)と共に当地へ移転したお寺さん。全面銅板葺き。

●虎杖横丁店と山野井商店 築地4-12-6
虎杖横丁店と山野井商店
またまた虎杖。3軒ほど看板建築が続いています。

●朝カラ食堂 築地6-24-7      ●築地すし鮑 築地6-24-8
朝カラ食堂 築地すし鮑

マルサン三軒家 ●マルサン三軒家 築地6-21-15

●海老の大丸 築地6-26-3       ●やま藤先の看板建築  
海老の大丸 <やま藤先の看板建築

●せともの 一不二 築地4-14-4
せともの一不二 その1

せともの一不二 その2

せともの一不二 その3 せともの一不二 その4
波除通りのお店。入口は金子海苔店でもあり、店舗の奥には所狭しと瀬戸物が置いてありますが、店舗の壁に「絶対勉強」「絶対勉強」「絶対勉強」「絶対勉強」と千社札みたいなものがたくさん貼ってあって仲間内で大うけしました(笑)。
離れて見ると気付づきますが、角を曲がった所にも同じデザインの看板建築があります。窓には羽根と天使(?)、角には真実の口みたいなおじさんがついてます。

(今日のおまけ)
築地ホテル 現在 現在の中央卸売市場の立体駐車場あたりには幕
 末、日本最初の本格的なホテルであった「築地
 ホテル」がありました。建設・経営の両方に携
 わったのが現在の 清水建設である清水組の
 二代目、清水喜助でした。
 明治元年に開業したものの、経営は思わしくな
 く明治3年には喜助は手を引き、明治5年に建物
 は海軍のものとなり、さらにその1か月後には
 銀座大火で消失。とても不運な建物のでした 
 が、何しろ初めての本格的なホテルということもあり、日本近代建築史上では結構有名な建物です。

(参考文献)
 
資料にみる近代建築の歩み
(三井本館解体工事現場)大正15年。中央の人物は「昭和天皇?!」と思ってしまう風貌。

今月末まで湯島の国立近現代建築資料館で「資料にみる近代建築の歩み」展が催されています。
近代建築黎明期の擬洋風建築から現代に繋がる高層ビルディングまで、文字通り、歩みの紹介。
   第1章 建築の文明開化~棟梁とお雇い外国人の活躍
   第2章 歴史主義との格闘~建築家と請負業の登場
   第3章 鉄とコンクリート~技術革新が建築を変える
   第4章 新たな時代へ~戦後復興を超えて-の4部構成。

資料にみる近代建築の歩み 展示場

現代を生きる私たちにとっては鉄筋コンクリートでも木造でも当たり前のように感じる建物ですし、レンガ造は懐かしみを持って見るという感覚ですが、明治期までの日本人はそれまでの2000年ほどの長い間、木造しか知らず、やっとレンガ造など新しい建築を取り入れたと思ったら、明治の半ばには鉄だコンクリートだとまたも新しいものが出てくるという、急激な革新の時代だったようです。

内部は設計図など以外は基本的に撮影可でしたが、鹿鳴館の階段(部材)は何故か撮影禁止でした。
この階段、一部分だけではありますが、建築史的というよりも歴史的に有名な建物ということで価値がありそう。昨年、ジョサイア・コンドルの絵の師匠だった河鍋暁斎展でも展示されていました。意外とお目にかかる機会のある展示物です(笑)。
他にも、三井組の柱頭とか一橋大兼松講堂のテラコッタとか、素人的には設計図よりも見て楽しい展示品が結構ありました。

三菱一号館柱頭
(三菱一号館柱頭)銀行営業部のコンポジット式柱頭。吹き抜けをつぶして2階を設けていた時期に塗られた白いペンキが残っている。

ビデオ上映でも貴重なものが流れています。
Ⅰ『 明治建築をつくった人びと - コンドル先生と四人の弟子 - 』(54分31秒)
   上映時間:10時と13時
Ⅱ『 大阪瓦斯ビルディング新築工事施工実況 』(40分29秒) 上映時間:11時と14時
Ⅲ『 明治生命保険株式会社新築工事実況 』(34分32秒)   上映時間:12時と15時
   ※展示会場内にて短縮版視聴可

「明治建築をつくった人びと」は辰野金吾が建てた大阪の旅館「南天苑」だったか、郷里・佐賀県の武雄温泉のどこぞの旅館だったかでビデオが見られると聞いたことがあって、泊まりに行ったら見られるかしらと漠然と思っていましたが、遠くに行かずして見られラッキーでした。もう20年前の映像で、中に出てくる藤森先生が若いです(笑)。

明治生命本社を建てる映像には地鎮祭の場面があり、岡田信一郎と曽禰達蔵が出席していました。動いている2人を見るのは初めてで「おー、動いてる」とかなりミーハーな気分に。

リベット打設道具 大阪瓦斯ビルディングの映像では、現
 場で1000℃近くに熱したリベット
 (鋲)を放り投げ、それを円錐の容器
 で見事キャッチしていたのが圧巻。
 一歩間違えれば大やけど。
 実際、危険ということで今は行われて
 いないようですが(高圧ボルトや溶接
 に 替えられています)、かつては地
 上から7階まで投げたとかなんと
 か。。。



(今日のおまけ)
岩崎邸
資料館へは2か所から入館が可能。1つは湯島地方合同庁舎正門から。もう1つは都立旧岩崎邸庭園から。
ただし岩崎邸から入る場合は、岩崎邸の入園者に限られるため、入園料400円が必要となります(資料館自体は無料ですが、土日は岩崎邸側からでないと入れません)。
お金はかかりますが、岩崎邸側から入るのがおすすめ。
資料館の大きな窓からは岩崎邸を見下ろす事ができ、洋館と和館のつなぎ目がしっかり見える隠れスポットでもあります。

資料にみる近代建築の歩み チラシ (展覧会データ)
 「資料にみる近代建築の歩み」
 場所:国立近現代建築資料館
 期間:2016年5月14日~7月31日
 開館時間:午前10時~午後4時30分。
 料金:入場無料。
 ただし、都立旧岩崎邸庭園から入場する場合は
 入園料400円(一般)が必要(土・日曜と祝日は
 旧岩崎邸庭園からのみ利用可)。