FC2ブログ
上高地帝国ホテル 小径
今年85周年の上高地帝国ホテルでは6月10日(日)~7月13日(金)の間、宿泊者対象にホテルの歴史スライド上映会が実施されるということで、行ってきました。

上高地帝国ホテル 正面
上高地帝国ホテルは昭和8年(1933年)開業の夏期限定ホテルです。

ホテルが建設された背景としては、一つに、昭和2年(1927年)、東京日日新聞社と大阪毎日新聞社が共催で読者から「日本新八景」の募集をしたところ、渓谷部門で上高地が一位となり、その名が一躍、全国的にメジャーになったこと。
もう一つに、昭和5年(1930年)頃から日本政府が外交政策&外貨獲得のため、政府融資による外国人向けホテルが全国各地に建設されていたことがあるようです。以前泊まった十和田ホテルもそうでした。今ある夏期限定ホテルってだいたいこの政策上作られたものという気がします。

上高地帝国ホテル 背面
そして昭和7年(1932年)、帝国ホテル社長だった大倉喜七郎がたまたま長野に行った際、長野県知事・石垣倉治から要請を受けてホテルの建設が決まったようです。
1年の半分を雪と氷に閉ざされるという、おおよそ経営的に好ましくないところにホテルが建ったのは、社長がバロンと呼ばれ道楽にお金をつぎ込む、あの大倉喜七郎だったからという面が感じ取れます。
道楽バロンと山岳リゾート。お似合いですわ。バロンは他にも同様の赤倉観光ホテルやゴルフリゾートの川奈ホテルも作っていますね。
そしてこれらの設計はすべて高橋貞太郎によるもの。大倉喜七郎というか帝国ホテル支配人・犬丸徹三との繋がりで作っていたのでしょうか。ほかに帝国ホテル第一新館も作っています。

その犬丸徹三は上高地へのホテル建設が決まると、すぐに視察へ来たそうで、中の湯から建設予定地まで県道を作ることを条件に要請を受け入れました。・・・というかまだ道もない、しかも冬は営業できないところによくぞ作ったなという感じです。
曰く「帝国ホテルとしては一応採算面を度外視しても、この建設と経営を敢行せざるを得ない事態に立ち至った(著書:ホテルと共に70年」)。

上高地帝国ホテル 工事
昭和8年5月17日に作業所が開設されました。
当初6か月半の工期とされていたいましたが、予定よりも融資が遅れて4か月で仕上げねばならない羽目に。
ほかの建物なら工期を延ばすことも出来たのでしょうが、夏季限定ホテルの建設を延ばしたら営業は翌年になってしまいますからなんとか突貫工事で乗り切りました。そのせいか、温泉の掘削をしてみたものの、時間がなくて温泉ホテルにはならなかったようです。残念。

なにもない所に大量の建築機材を運び込むのは大変で、工期も迫っていますから地元の業者だけでなく東京からもトラックを20台ほど派遣しなんとか間に合わせたようです。
木材1100トン その費用だけでも1万1200円(現代の価値で約1億円以上)。
7月21日に1階部分ほぼ出来上がり、5日後には2階部分、その4日後には3階部分、1か月後には外観まで出来上がったそうです。
9月30日完成。従業員22名にて10月6日開業(現在は106名で営業)。

上高地帝国ホテル グリンデルワルト正面
ロビーラウンジ・グリンデルワルト。のちの改修で外観は初代とほぼそっくりに立て替えられましたですが内部は全然違うようです。

上高地帝国ホテル グリンデルワルト上から
上高地帝国ホテル グリンデルワルト灰 暖炉の灰は石庭の波模様のよう。

上高地帝国ホテル ベランダ上高地帝国ホテル テラス
かつてのベランダ(共同のベランダで現在のように各部屋で独立していなかった)と現在のテラス(ラウンジの2階から出ることができる)。

上高地帝国ホテル 帳場上高地帝国ホテル フロント
かつての帳場と現在のフロント。

上高地帝国ホテル 図書室
宿泊者のみ入れる図書室。昔の写真やパンフレットなども飾られている。

上高地帝国ホテル エレベーター上高地帝国ホテル グリンデルワルト
エレベーターの内装はロビーラウンジ上部を模している。かつてはエレベーターホール付近がフロントだったそう。

上高地帝国ホテル タイプA1
泊まったのはツインAタイプ。本当はベランダ付きに泊まりたかったのですが、泊まろうと思い立ったのが10日前でもう予約は埋まっていました・・・。じゃ、どうせなら他のホテルではない、屋根の傾斜の天井の、とAタイプにしましたが、う~ん、やっぱりちょっと狭かったです。
ちなみに、創業当初の部屋数は全部で46室。うちバスルームがついているのは8室のみで14円(現在の価値で約14万円)。屋根裏にはスチューデントルーム(相部屋・2万円)があり、として主に登山する学生が利用していたそうです。

上高地帝国ホテル タイプA2
そうそう部屋にはなんと双眼鏡が備えてありました。さすが山岳リゾートホテル。
それと、夕食に出ている間にターンオーバーがありました。コンラッドに泊まった時、「ターンオーバーは何時になさいますか」と聞かれて、それまで超高いホテルに泊まったことがなかった私は『なんじゃそりゃ』、と恥をかいたものですが、まあ要するに「お休みの準備」ってやつですね。日本の旅館ではフツーにお客が夕食とっている間に布団を敷いてくれますが、ホテルだともうベッドはそこにあるのでターンオーバーとか言っても、ベッドカバー外すくらい?? あと、ベッドの脇にコイン型のチョコレートが置かれていました。

上高地帝国ホテル プレートそれから今年85周年だからか、売店で売っているのとは違う、やや小ぶりの記念プレートも置いてありました(後ろに写っているのはショップで買った85周年記念チョコ)。ショップになかったので宿泊者向けの非売品でしょうか。

上高地帝国ホテル(その2 食事編)へと続く。。。



(参考文献)


上高地 河童橋●今日のおまけ

ホテルから5分ほど歩いたところにある河童橋は芥川龍之介の『河童』の舞台としても有名です。

河童橋の名前の由来には、
(その1)河童が住んでいたから
(その2)橋ができるまでは、女性が頭の上にタオルをのせて渡った姿が河童に似ていたから
などの説があるようです。



スポンサーサイト
旅館の広々とした玄関。
三養荘 フロント 三養荘はもともとは三菱財閥の第三代総帥だった
 岩崎久彌が昭和4年に建てた別邸でした。
 当時64歳の久彌は既に社長を退き(大正5年)、
 小岩井農場の運営に注力していたそうです。
 戦後の財産税のあおりでしょうが、昭和21年に堤
 康次郎に所有が移ります(それでプリンスホテル
 系な訳ですね)。

 それを三養荘として営業開始したのは昭和22年の
 こと。伊豆長岡温泉の中でも屈指の旅館で、天皇
 皇后両陛下・皇太子などが度々ご宿泊されまし
 た。「銀の匙」で有名な中勘助も宿泊記録があ
 るようです。
 現在、玄関口となっている方は隣にあった白石旅
 館を買い取って建てた新館部分です。
 ということで旅館2つ分(4万2000坪)という広
 大な敷地。これだけ広ければ上に建てる必要もな
いようで、建物はほとんど平屋です(そのため、食事や浴場への移動に歩くこと歩くこと…)。

三養荘 全体図
中央グレーの道路より上半分が旧岩崎別邸、下半分が旧白石館。

三養荘 浮舟 外1 三養荘 浮舟 外2
泊まったのは村野藤吾が建てた新館の「浮舟」という部屋でした。
旅館の配置図をみると、南に位置する新館は2部屋が続きになっているものが多く、施錠された戸でつながっているようでした。なので、その気になれば行き来できるのでしょうが、「浮舟」だけでも本間のほか、次の間、化粧間があり実感としては家族4人で泊まっても広すぎるくらい。

三養荘 浮舟 本間
トンネルのような形の床の間は主に茶室に用いられる形式のひとつで洞床(ほらどこ)の一種・龕破床(がんわりどこ)というものだそう。

三養荘 浮舟 次の間 三養荘 浮舟 廊下

三養荘 浮舟 内風呂 今回、三越の平日限定宿泊クーポンというのを
 使ったので、部屋はお任せで通常料金もよく分
 からなかったのですが、じゃらんで検索してみる
 と化粧間もあって内湯もついているプランは平
 日でも28,000円くらいだったので、やっぱり
 三越クーポン(21,600円)使ったのはお得だっ
 たのかも(食事のコースランクも不明なので断
 言はできませんが・・・)。
 三越クーポンは定期的に三越で販売されていて、
 フツーの一般客でも買えます!
 ただ特定日だけの販売なので、友の会などに入っ
 ていないと予め販売日を知るのは難しいかも。

 一応、一続きの建物に客室がつながっている訳で
 すが、実際は「離れ」の感覚に近く、庭に出ても
 他の客に見られることもなく、内風呂もガラス面
 でも見られる心配もなし。

三養荘 本館広間
夕食は本館広間もくせいへ。こちらは戦後建てられたものですが、それでも物凄い太い柱。

料理はオーソドックスな盛り付け・品でしたが、どれも美味しゅうございました。その中で目も気も引いたのは赤梅甘露煮。大振りで人形町・凡味の太郎梅を思い出します。
それから、これぞ伊豆、というのが締めのご飯のときに出てくる山葵。これをご飯にのせてちょっと醤油をたらして食べます。

三養荘 夕食1三養荘 夕食2三養荘 夕食3
写真のほか、煮物、小鍋、水菓子がつく。

大広間へ行くときに必ず通るのが、今はバーとして使われている、「狩野川」。こちらは関東大震災後の復興を指揮したことでも知られる後藤新平の田舎家を移築(昭和25年)したものです。家屋の一部を移築したようで、独立はしておらず、広間の隣にピタッとくっつき建物のひと部屋となっています。

三養荘 バー1

三養荘 バー2
バーと言っても開店休業っぽい感じ。すぐ近くの古奈別荘の洋館もこんな感じで喫茶営業の気配がありませんでしたっけ。。。

三養荘 バー3

三養荘 バー4 三養荘 バー5
遠目には「ん?トイレのマーク??」に見えたのはダンスをしている男女。まさか田舎家時代にそんなものを取り付けたとも思えないので、バーになってからのものかと。

三養荘 全景
宿泊客には翌朝9時から本館庭園のガイドがあるということで、参加してきました。
小さい子には(大人も?)頼めば鯉にやるエサも頂けます(^0^)

庭園入ってすぐにある石の塔は経歴が不明。従業員に伝わる話では韓国のものということだったけれども、古い書物に唐時代の中国のものと載っていたものの、写真がないのでそれもはっきりしないのだとか。
三養荘 石塔

三養荘 老松

三養荘 老松 三養荘 老松 鞍馬石
本館「老松」はもともとは応接間兼客間として使われていました。縁側の沓脱石は京都の鞍馬石で、現在ですと、石だけで一千万円下らないのだとか。かなり深く掘って埋めてあるそうで、見えないのに大きな石を使うところがさすが大金持ちって感じ・・・

何故これだけ大きな石を土台にしているかというと、客間ということで、庭に出る時に下駄を12足くらい置けるようにわざわざ大きな石を置いたとのことでした。と言っても、居間の沓脱石もすごくおっきかったですが・・・。まあ、岩崎家は大きな石が好きな人々ですしね。

鞍馬石について:名の通り京都府鞍馬山系で産出され、鉄分が多い為、表面が赤茶色・錆色
 になっています。
 今はほとんどとれなく、丹波や甲州の鞍馬石に対し本鞍馬石と呼ばれることも。
 特に大形の沓脱石は産出量が非常に少なく、ステータスシンボルといえます。

三養荘 松風
岩崎家別邸の時代には、居間として使用されていた「松風」。画像右の建物は小督(こごう)。
庭園の中央に位置し、山に対しても池に対しても真正面。
主の久彌の部屋であったこちらの床の間からの眺めが一番ということですね。
昔は東屋が山の方にあって、そこから自分の部屋を眺めていたそう。

三養荘 松風から見る庭
「松風」から見おろす庭。植治こと七代目小川治兵衛により作庭され、庭木・石の配置など京風です。ちなみに、岩崎家と植治の繋がりとしては、久彌のいとこである第四代総帥・岩崎小彌太邸の跡地(現在:国際文化会館)に庭が残っているそうです。

今、久彌の時代の建物で残っているのは4棟ほどで、画像左に見える離れは後年の建物。2000坪もの庭を潰して新たに客室を作ったため、今の庭は3000坪ほど。久彌が眺めたであろう庭とはかなり違っているのでしょうが、それでも今なお宏壮な景色です。

 (参考文献)  匠たちの名建築 稲葉なおと著

(今日のおまけ)
沼津御用邸 正門沼津御用邸 ビリヤード場沼津御用邸 洋館写真1沼津御用邸 洋館写真2
帰りに近くにある沼津御用邸記念公園を見学しました。残念ながら終戦間近の空襲により洋館などは燃えてしまい、今は和館の西付属邸が残るのみ。一部、増築された御玉突所(ビリヤード室)や正門が西洋風です。
なお、写真の洋館は御用邸としては最初で最後のものでした。片山東熊が設計したものだそうで焼失しまって本当に残念です。

正門について(看板の説明文引用) 
この正門は明治時代、大正天皇の皇太子時代に御用勤務の医師を務めたエルヴィン・ベルツ博士の縁により、ドイツのゾーリンゲンで特別に造らせた鋳鉄製の門で、長い歳月を経て、当時の姿を今日に伝えています。
2015.10.20 ●川奈ホテル
川奈ホテル
8月末、ホテルオークラ本館が惜しまれながら営業を停止しました。
これからオリンピックを見据え、建て替えが始まります。
このホテルを創業したのが、旧大倉財閥の二代目大倉喜七郎。そして今回宿泊した川奈ホテルの創業者でもあります(喜七郎は川奈ホテルでホテルオークラの構想を練ったのだとか)。
川奈ホテルはもともとはホテルではなく、伊東で静養していた喜七郎が、当時まだ道路も通っていなかった川奈の地を訪れて、かつて留学していたイギリスに思いを馳せ、牧場を作ろうと、大正末期に広大な土地を購入したのが始まりでした。が、いざ作るとなると、溶岩台地である川奈は土地が痩せていて牧場はムリと判明。代わりにゴルフ場となったのでした。

このお話は川奈ホテルの説明として、大抵の建築紹介本に書かれているのですが、その経緯についての記述は様々でなかなか面白いです。例えば、 『ホテルクラッシック』ではあっさりと「芝ならなんとか育つ」ということでゴルフ場になったと説明。藤森先生の『建築探偵 奇想天外』では「土地が痩せているので半分だけ牧場、残りはゴルフ場にすることにしたが、担当者との意思疎通を欠いたため、なんだかすべてゴルフ場になってしまった」。
一方、『日本の駅舎とクラッシックホテル』では、担当者の独断でゴルフ場となり、完成後にそれを知った喜七郎が呆然と立ち尽くしたというのはさすがに伝説だろう」。最もそれっぽいのは『ノスタルジックホテル物語』で、雑誌『清朝45』1986年11月号 山本幸子『川奈ホテルの創世記』を挙げて、「ロンドン帰りだった整地担当者が喜七郎にゴルフ場にしてはと進言した」というものです。
何だか言っていることがみんな違う(笑)。まぁ、いずれにしても、とにかく牧場には向かないのでゴルフ場にしましたということでしょうか。

川奈ホテル 全景
当初は喜七郎の周辺関係内でだけ楽しむゴルフ場だったのが、評判が広まり要望に応え、ホテルを作って一般の人も利用できるようにしたようです。

今回、海側指定で宿泊しました。さすがに見晴しがいいのですが、曇っててちょっと残念。翌日は雨で、結局、庭側から写真を撮る機会も逃してしまいました。しまった。。。
にしても、ベランダから水平線が見えるどころか、地球が丸いことが感じられました。
川奈ホテル シーサイド

部屋はごく普通に料金に見合う広さと調度品でしたが、なにやら客室エリア全体がこもった空気で妙な圧迫感・・・。
川奈ホテル 部屋

建物の外観は温暖な気候によく似合うスパニッシュ様式ですが、内装はイギリス贔屓の喜七郎らしく英国式カントリーハウスを基調としています。

(玄関入口)
玄関入口、扉の把手はゴルフボールとクラブをモチーフに作られています。部屋にあったマドラーもアイアン。
川奈ホテル 玄関 川奈ホテル マドラー

玄関入って左、現在クロークになっているところが開業当時はフロントでした。
川奈ホテル クローク 川奈ホテル フロント

(メインロビー)
川奈ホテル メインロビー その1

川奈ホテル メインロビー その2


川奈ホテル メインロビー その3

川奈ホテル メインロビー その4
川奈ホテルと言えばやはりメインロビー。広々とした空間に立派な暖炉。バランスが取れているため、写真ではわかりませんが、暖炉横に置いてある熊のぬいぐるみは2m以上の巨大なもの。いかに暖炉が大きいかが分かります。
なお暖炉には、今も12月下旬から薪がくべられるそう。
クリスマスに来るとまた素敵でしょうね。

川奈ホテル メインロビー その5
暖炉の反対側、階段部分の柱には大理石が張られています。客室にあった探索マップの説明書きによると、これに携わったのが「矢崎大理石会社」。国会議事堂を手掛けた業者で、議事堂が出来たのが昭和11年11月7日。このホテルの竣工と重なり大変だったかもしれません。
大理石の張り合わせ部分が見どころで「シマ合せ」という職人技が施されています。

(第二ロビー)
川奈ホテル 第二ロビー その1

川奈ホテル 第二ロビー その2

川奈ホテル 第二ロビー その3
メインロビー隣には第二ロビーがあります。2階部分に学士会館のオーケストラボックスのようなものがありますが、これは映写室。今は使用出来ないそうですが、かつては窓の枠にスクリーンを作成し、映画鑑賞会が行われていたそうです。

(サンパーラー)
川奈ホテル サンパーラー
川奈ホテルの紹介でロビーのほかよく見るのがサンパーラー。ちょうど翌日がウェディングフェアというとで、夜には椅子など入れ替えられていました。近代建築度は低いですが、昭和12年2月には与謝野晶子が「海に添う 東日本をことごとく 望み見ぬべき サンルウムかな」といううたを残しています。

ダイニングなどは次回ご紹介。。。

(参考文献)
  

(今日のおまけ)
 今回、宿泊前の予習として、足しになるかなーと思い、喜七郎の父であ
 る喜八郎の評伝『大倉喜八郎 その豪快なる生涯』を読んでみました。
 実際、読んでみると喜七郎のことはほとんど出てこなくて (^_^; 、予
 習にはなりませんでした。
 しかし、喜八郎がありとあらゆる事業を起こしたことに感嘆。三菱、三
 井、住友などが財閥解体後も復活する中、大倉だけが復活できなかった
 ため、普段意識することはないですが、自分も知っている企業の元が大
 倉と分かってびっくり。靴のリーガルとかコラーゲンのニッピとか
 帝国ホテルとか。。。
 ライトが帝国ホテルを作る時、予算をものすごいオーバーして大変だっ
 たという話は知っていましたが、その莫大な追加費用を用立て支援した
           のが喜八郎だったのですね。
個人的には、四季報で見ると、ニッピ(旧日本皮革株式会社)とリーガル(旧日本製靴株式会社)が、今もお互いの大株主同志というのが、昔からの繋がりが感じられて面白かったです。
ちなみに、川奈ホテルを建設したのはもちろん身内の大倉組土木(のちの大成建設)でした。
万平ホテル 正面
日々の生活に追われるうちに、また時間があいてしまいましたが・・・万平ホテルその2です。

万平ホテルのもとをたどると「亀屋」という旅籠の存在があります。
江戸時代は中山道の宿場として繁栄した軽井沢ですが、明治になると宿駅制が廃止され、さらには碓氷新道ができて衰退していきました。
当然、旅籠の経営も苦しく、それだけでは食べていけずに主人の佐藤萬平は長野県庁に勤めに出ている状態でした。
転機が訪れたのは明治19年。英語教師のディクソンが東京の暑さを逃れ、ひと夏亀屋を借りたことによります。萬平は県庁をやめてディクソンのコックとして働いたことで、西洋文化に触れ、旅籠を西洋的なホテル化へと踏み切ったようです。
軽井沢が外国人の避暑地として発展する一端を担ったとも言える転換ですが、その後、娘婿の国三郎は外国人が発音しやすいようにと、亀屋(→亀屋ホテル)から万平ホテルの名に変えたそうです。
万平ホテル 入口
ホテル入口

万平ホテル ロビー
ホテル ロビー

建物はドイツのシャレー(山小屋)的であるとともに、地元佐久地方の養蚕農家をイメージしたものとか信州的な本棟造り(緩やかな切り妻や少し張り出した3階部分など)言われています。
どちらにしても、華美な装飾はなく、前回紹介したメインダイニングと廊下のステンドグラスを除けば、ロビーなども割りと質素な感じ。

万平ホテル 廊下
メインダイニングルームのある廊下には、中山道の今昔を描いた宇野澤夫のステンドグラス。

万平ホテル 中庭
ホテル中庭

万平ホテル 新館客室私たちが泊まったのは52平米の別館でした。今思えば近代建築のアルプス館とかに泊まったほうが良かったのですが、母の日のプレゼントで義母と3人で行ったので広い別館で良かったかも。
エキストラベッド入れても余りある広さでした。
今度泊まる機会があれば、ウスイ館もいいかも。『日本の駅舎とクラシックホテル』という本によると、ウスイ館は明治35年に建てられ、2001年に創建当時の再現を配慮した改装がされているようです。

万平ホテル 初代
明治35年、現在の地に場所を移して新たに建てられた万平ホテル。設計は軽井沢一の棟梁といわれた小林代造。

万平ホテル 本館写真
ホテル本館(左)と浅間館。浅間館の正面に「亀」の彫刻。万平ホテルの前身が旅籠「亀屋」だったことを伝えるもの。

万平ホテル アルプス館
昭和11年竣工した当初のアルプス館。設計は日光金谷ホテルと同じ久米権九郎。
当時のお金で建設費20万円、いまの金額にすると5億円超をかけた大工事でした。
完成した頃のホテル代はツイン10円~(現在だと25000円ほど)、
特別室は30円(現在だと80000円ほど)
戦後は英軍の将校専用の休養向け施設として昭和21年まで接収。

万平ホテル 史料室
印象に残ったのは本館1階にある史料室の充実ぶりでしょうか。
これだけスペースと多くが展示されているホテルはあまりないと思います。

万平ホテル 絵画即売あと、あまり関係ないけど、ホテル入口近くの小部屋で美術史に残るような画家の絵画が即売されていました。高級ホテルだと売れやすいのかな? 私も死ぬまでに1枚欲しいと思っている川合玉堂の名前もあったので、あわよくば買い!・・・と思って中を覗いてみましたけど・・・1500万円だった(涙)。
値札の半額って書いてあったけどそれでも750万円でしょ。・・・って言うか、その値段のつけ方、かえって胡散臭くない?

(アルプス館・建築データ)
竣工 :1936年(昭和11年)
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢925
設計 :久米権九郎
施工 :不明
構造 :木造3階建て

(今日のおまけ)
美徳のよろめき (新潮文庫)美徳のよろめき (新潮文庫)
(1960/11/08)
三島 由紀夫

商品詳細を見る

万平ホテル 三島由紀夫前回、万平ホテルが出てくる小説として『恋』を紹介しましたが、三島由紀夫の『美徳のよろめき』もまた、万平ホテルを舞台にして書かれたものだと言われています。
史料室には三島由紀夫の宿泊名簿の記載も展示されていて(本名でサインしないんだなーと思った)、泊まったから小説にも出てくるんだなと思いましたが・・・読んだの大学を出てすぐの頃だったんで、そんなシーンがあったことは全く覚えてない(^_^; ・・・記憶が遠すぎるよ。
覚えてるのは三島由紀夫の文章のうまさと主人公と相手の青年が裸で食事をしたことだけか(笑)。
そもそも、『美徳のよろめき』っていうタイトルからしてアヤしいけど(当時、よろめき族という言葉が流行したそうな)、素っ裸で食べるとゆーのもアヤし過ぎる! 一般庶民がすると、「ん?裸でごはん?貧乏なの??」となるところが、ブルジョアがすると途端にアヤしさ爆発!!耽美的。
この小説がドラマ化された際には、当ホテルでも撮影が行われたそうですが、あの食事シーンはどうなったかしらねえ。

(参考文献)
信州の西洋館信州の西洋館
(1995/11)
藤森 照信

商品詳細を見る
●ホテルヴィブラントオタル(旧北海道拓殖銀行小樽支店)
手薄になっている宿泊編に手を伸ばそうと思いましたが・・・万平ホテルとか御花とかは大変なので(^_^;、先に軽めのこちらをご紹介。。。

ヴィブラントオタル 全体
北海道観光の折に小樽で利用したのが「ホテルヴィブラントオタル」。もとは北海道拓殖銀行の支店として大正12年に建てられたものです。昭和44年(1969年)に支店移転で閉鎖された後はホテルや美術館に転用され、平成18年(2006年)今の名称のホテルに落ち着きました。

ヴィブラントオタル 正面ホテルヴィブラント 持ち送り
入口左右の柱は、上の重みに耐えかねてこうなってしまったか、と思えるような太く短いものであるのに対し、中へ入るといかにも銀行建築らしい高い吹き抜けにジャイアントオーダーが6柱。
持ち送りのデザインなども素敵です。

ヴィブラントオタル 取っ手ヴィブラントオタル 窓
銀行だったころは1・2階が銀行だったほか、金庫室は1・2階に加え、地下1階にもありました。
当時は貸事務所を併設していたとのことで、多分3・4階部分がそうだったのでしょう。

ホテルヴィブラント 廊下ホテルヴィブラント 金庫
せっかく銀行だったところに泊まるんだから!と、金庫だった部屋をしっかり指定して泊まってみました(←そういうの大好き)。
どんな部屋か結構楽しみにしていたのですが・・・中は本当にフツーのビジネスホテルでした(笑)。
金庫なだけに窓はないし(その分、宿泊費は普通のツインよりちょっと安かったような)。
でも金庫だったころの扉がさすがの厚みだったし、無料で付いていた朝ごはんは気持ちのいい吹き抜けで食べられたのでこれはこれで満足でした。朝食の内容自体もヨモギ食パンやクロワッサンなど数種類とジャム・コーヒー・スープが食べ放題・飲み放題と、シンプルながらそれなりに充実。
ヴィブラントオタル 1階

近代建築ホテルに泊まろうとすると、普通かなりお金がかかりますが、ここはリーズナブルに近代建築気分を味わえる点で、ホテルニューカマクラと双璧をなすかも。ホテルニューカマクラもいずれご紹介を。

(建築データ)
竣工 :1923年(大正12年)
所在地:北海道小樽市色内1-3-1
設計 :矢橋賢吉、小林正紹、山本万太郎
施工 :伊藤組
構造 :鉄筋コンクリート造、地上4階、地下1階建
備考 :市歴史的建造物、小樽市都市景観賞受賞

●小樽グランドホテル・クラシック(旧越中屋ホテル)

小樽グランドホテル 全体

もしここがまだ営業してたら小樽にもう一泊したのになあ・・・と残念で仕方なかったのがこちらのホテル。
もともとは老舗旅館越中屋が地元建築家に作らせた外国人専用のホテルでした。昭和6年竣工のためか、ホテルとして営業していたのは最初の10年間だけで、戦時中は陸軍が使用し、戦後は米軍へ接収されてしまいました。その後オフィス利用されましたが一時は取り壊しの話も持ち上がったり。
地元の要望で修復され、1993年にやっと本来のホテルとして再稼動したものの、母体の小樽グランドホテルが経営不振で閉鎖されるのに合わせ、2009年2月16日閉館してしまいました。
外観を伺った時は閉館のはずなのに明かりがついていて、人が出入りしていましたが、今も営業再開の気配はないようです。

小樽グランドホテル ステンド 小樽グランドホテル 入口2
外観は一見地味でそれほど心惹かれるものはないのですが、遠目から見た限り、中は素敵そう。京都の長楽館が外観パッとしないのに反比例して中がすごいのに通じるのかも。

小樽グランドホテル 入口1
内部は英国調で、ステンドグラスなども設えてあるようです。このまま貴重な観光資源を眠らせておくのはもったいない。ここは一つ、星野リゾートあたりに再生をお願いしたいところです!

(建築データ)
竣工 :1931年(昭和6年)
所在地:北海道小樽市色内1-8-25
設計 :倉沢国治事務所
構造 :鉄筋コンクリート造、地上3階、地下1階建
備考 :市歴史的建造物、近代化産業遺産

●今日のおまけ
蟹工船・党生活者 (角川文庫)蟹工船・党生活者 (角川文庫)
(2008/08/25)
小林 多喜二

商品詳細を見る
ホテルヴィブラントで外せないのがプロレタリア文学として有名な「蟹工船」を書いた小林多喜二です。
ホテルはもともとは北海道拓殖銀行の小樽支店だったのですが、小樽高等商業学校(現小樽商科大学)卒業後、この銀行へ就職した多喜二が配属されたのが小樽支店でした。
プロレタリア文学とあの厳かな柱の銀行はイメージが対照的で、『小林多喜二ってこんな所で働いていたんだ』と、ちょっと意外でした。

何年か前、「蟹工船」が若者の間で流行っている、これは不況就職難の世相反映では、みたいな新聞記事を読んだ記憶がありますが、私は未だに読んでおりません。
「蟹工船」=「辛い労働者の話」というイメージでどうも読む気になれず・・・。正直なところ、この先も読まずに私は人生終えそうです。

(参考文献)
小樽たてもの散歩 小樽再生フォーラム 

洋館さんぽ EAST 目的でさがすガイドブック洋館さんぽ EAST 目的でさがすガイドブック
(2010/11/10)
㈱インク・インコーポレーション

商品詳細を見る